その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。
今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
また、わたしに言われた、 「あなたはわがしもべ、 わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
ヤコブには魔術がなく、 イスラエルには占いがない。 神がそのなすところを時に応じてヤコブに告げ、 イスラエルに示されるからだ。
しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、
キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、
主は聖なる者の会議において恐るべき神、 そのまわりにあるすべての者にまさって 大いなる恐るべき者です。
どうか、主がかの日に、あわれみを彼に賜わるように。――彼がエペソで、どれほどわたしに仕えてくれたかは、だれよりもあなたがよく知っている。
そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。
それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。
これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。
兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。
なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
わたしのことで、神をほめたたえた。
イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。
あなたの民はことごとく正しい者となって、 とこしえに地を所有する。 彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、 わが栄光をあらわすものとなる。
天よ、歌え、主がこの事をなされたから。 地の深き所よ、呼ばわれ。 もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、 声を放って歌え。 主はヤコブをあがない、 イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。
この民は、わが誉を述べさせるために わたしが自分のために造ったものである。
神はその聖所で恐るべく、 イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。 神はほむべきかな。
その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、 おごる人はかがめられ、 主のみ高くあげられる。
人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。
確かに偉大なのは、この信心の奥義である、 「キリストは肉において現れ、 霊において義とせられ、 御使たちに見られ、 諸国民の間に伝えられ、 世界の中で信じられ、 栄光のうちに天に上げられた」。